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ラッキィセブンティライフ

ラッキィセブンティライフ

八十路の追憶

昭和16年4月国民学校入学
 昭和16年12月8日大東亜戦争勃発 大紹奉戴日タイショウホウタイビのロレツが覚えられず苦心す
  大病し片田舎で、医者なし、母が医者の娘だった故、適切看病で奇跡的に天国行きストップ。
  長期欠席後。学芸会ウサギとカメ。先生の子は、別格の田舎、主役のウサギなれど、両足揃えてピョンピョンができず苦労。

 昭和19年4月、4年生。父が教頭になり栄転。転校。
 昭和20年   5年生 級長に指名され、クラスまとめに苦慮。イジメにあう。(いやがらせをした子は、今でもフルネーム覚えてる。)親に言えず、やりぬく。
 戦争激しくなり、途中、分散学校はじまる。お寺の本堂での地区の全員が一緒に学習。
 8月9日11時ごろ、緑色の強烈な光がピカット光り、アット思った後に大きな揺れがしたので、みんな大慌てで、お寺の庭に人数分掘られたタコツボにそれぞれ飛び込みました。
 何事もないので、「たこつぼ」からでてみたら、東の長崎の方に大きな大きな入道雲があがっていました。原爆です。
 8月15日夏休み中、敗戦。
 ばあさんのところに遊びに行ってて、ひょうたんを、棒切れで上段に構え「精神一統何事かならざらむ」と叩いた。それを見た隣のイカケ屋のおじさんが、「何事もならんだな」と情けない顔してた顔を今でも覚えてる。
 イカケ屋のかねどんは、それから竹やり造りにみんなとでかけていった。
 「日本は負けたが、九州は独立して、戦争続けるんだ」のうわさで、いよいよ竹やりで鬼畜米英をやっつけるのかと思った。

 長崎に行ってた家族の帰卿がはじまりました、
 家族の遺骨を持って帰る人。たまたま学徒動員で市街地を離れていて助かり、一人で、全員の遺骨を持ってくる人など。全員無くなったとのうわさもあちこちでささやかれた。
  運命の生死区分は、きびしくも強烈でした。

 昭和22年4月新制中学校が出来、父が中学校校長になり、転校。
 父親と一緒に、赴任と入学、新しい学校にいく。

 民主主義教育がすすめられ、選挙で生徒会長選び、全体会で物事を多数決で決める。
 又、ここでも、先生の子で、票もらう結果となる。先生の子は怠けものではいけないのが、田舎の掟。全体会の司会していて、へますると、校長から皆の前でこっぴどく注意され、とんだ優等生?で中学卒業。
 昭和25年新制高等学校入学。親元はなれ寄宿舎生活。
 3寮あり、一部屋6畳5人。3年生1人、2年生2人、1年生2人。
 起床! 3年、2年生はハブラシ咥えタオル肩に洗面所へ1年生は上級生のフトン、自分のフトンを押し入れにしまい、就寝の時に廊下に出していた机を部屋に入れ、並べ、部屋、廊下の掃除すまして、洗面にいく。
 点呼! 全員運動場に3寮コの字にならび、各寮長が人員点呼し舎監の先生が受ける、さながら軍隊方式は、存在していた。

 「○寮総員○○名、○名欠員、。現在員○○名。番号!」
 「1、2、3、4、-----」2列に並んでるので、2列の最後の者が偶数か奇数かを答える。「満」または「欠」。
 16の満だったら、32名。16の欠だったら31名。寮長は、報告数と現在員を確認し、
 「欠員○名は○名帰省、○名病気就寝終り!」これで人員報告確認。

 これを3寮長が行い。報告がすんだら、舎監の先生のお話です。
 大学入試対策のはなし、自分の大学の自慢などなど。
 
 朝の全員体操があり、解散。
 
 食事!食堂にあつまり、舎監1段高い所に座り、「いただきます」の舎監の声で食事。

 クラブ活動はありましたが、道とつくものは、マッカーサー命令で禁止。柔道、剣道、銃剣道は尚武で復古禁止。
 柔道は名称が相撲部で、雨が降ったら室内練習を畳の上でする名目で実施。年中雨降り状態の畳使用相撲部だった。

 相撲部の柔道にはいった。
 
 初日。1年生だが、練習をつけてやるという。
 柔道着を着せて、いきなり組手の練習ときた。無茶だ。
 準備体操もせず、いきなり、足払い。しかも両袖をしっかりもってないので、こちらは、畳にこけた。普通なら、両袖をひきあげてやるので、平行に畳につくのだが、手を畳につくことになった。
 奇妙な音とともに手首が脱臼した。

 この1年生、本渡中学出で柔道やってたらしく、肩で風切るタイプだった。ぐにゃっとした手首みて、本人より青ざめオロオロ。
 ズキットした痛みの手頸を股で鋏み、ヒッパリ、側にあった卓球台の上にのせマッサージしたら元にかえった。
 伯父さんが外科医者やっていたので行ったらレントゲンかけてくれたが、元に帰ってるとのことで添え木をして首から白布で吊下げてくれた。
 本渡中の奴さんそれからの態度はやさしかったこと。

 初日からへまやらかした無念は、その夜からのえぐるような痛みよりも悔しく感じた。1週間もたつとはがゆくなり、寮から朝夕出かけ、体育館の畳にボクシング部のサンドバックをひっぱりだしてきて、受け身の練習をした。だから今でも左の前方回転受け身だけは上手だが右はできない。

 2年で昇段試験に熊本へでかけた。
 天草は汽車も電車もない。用が無かったらだ掛けないから見ない。
 初めての汽車にのって、熊本全土の集まりの組み合わせの試合だったが、3勝1引き分けでパス。初めて使った巴投げも1本だった。


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